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私の娘は養子です。その3




こんにちは。ニューヨークのココマスダ です。


前回書いた、娘のボーイフレンドのコロナのテスト、そして娘の抗体検査の結果は無事陰性だったので、私は自宅に帰りました。って事は、娘と2ヶ月自宅待機していた私も陰性でしょう。娘も私も、(症状が出なかっただけで)知らないうちにコロナに感染していて抗体を持っていたら良かったのにな〜とは思いますが、そう上手くはいきません。


これからも気をつけて生活しなければ!です。


さて、前回に続き、娘を養子に迎えた時の話を書きます。


母性本能が強く、ずっと子供が欲しかったとはいえ、

9ヶ月妊娠をして、赤ちゃんをお腹に宿らせて、

母と子の時間を過ごしていないのに、すぐに母親になれるはずはありません。


普通に自分の子を出産しても、

母性本能が沸かずに鬱になる母親も沢山いるんですから尚更です。


私が抱くと泣く子に困り果て、私は元夫に


"I have to be let her know that I am going to be her mother.

Please leave us alone for a week."

(私が母親になるって事をこの子にわかってもらわないといけないの。

一週間二人だけにして。)

と言って寝室のドアを閉めて、必要以外は寝室から出ずに引きこもりました

早く孫の顔を見たい、と来たがっている義理の両親にも待ってもらいました。


それから一週間、なかなか泣き止まない赤ちゃんをひとりであやして世話をしました。

自分が受け入れてもらえない哀しさはもちろんでしたが、

産みの母親のお乳が欲しいのだろう、と思うと本当に可哀想で、

「ごめんね、ママはお乳をあげられないの。」と私もボロボロ涙を流して泣き続けました。


子供を抱いて揺らして部屋を歩き回り、日本語で子守唄を歌い続け、少しづつ泣き止ませられるコツを覚えていきました。お腹が空いた時、ウンチをする時の表情もわかるようになりました。


お互いに一生懸命でした。

そして、ありがたいかな、この間に私たちは絆を結び、親子になったのです。

娘は、私が抱くと一番安心し、私が子守唄を歌ってあげると寝る子になりました。


3ヶ月の間に産みの母親が気を変えて、赤ちゃんを返さなければならない可能性はあったので、

複雑な気持ちでしたよ。そうなったらそうなったでこの子のためには仕方がない、と思うようにしていましたが、辛かったです。でも、その3ヶ月もあっという間に過ぎました。


元義理の両親は、娘を快く受け入れて、心から喜んでくれました。


大勢の友人が私たちの養子縁組を歓迎し、まるでスターが到来したかのように娘に会いたがりました。

もちろん興味もあったと思います。

自分たちは韓国から二人の養子を迎えたユダヤ系の先輩夫婦が、歓迎ホームパーティーを催してくれました。

何年にもわたる不妊治療を経てやっと双子を授かった親友が、もうひとつのホームパーティーを催してくれました。

そして私たちもウッドストックの別荘でホームパーティーをし、マンハッタンでのパーティーに来れなかったアップステートの友人たちを迎えました。

私たちの養子縁組は、一週間のうちに三回のパーティーで祝福されたのです。ギフトも沢山いただきました。


トップの写真は、娘の誕生祝いプラス、養子に迎えた事を知らせたカードの写真です。

可愛いでしょ〜。


実家の母は、私が養子を迎えた事に対して日本の親戚たちがどう思うか心配していましたが、私はそれは気にせず、カードに日本語の翻訳を添えて送りました。そうしたら、母の姉の叔母が「可愛いわね〜!」ととても喜んで、写真をポスターの大きさに引き延ばした、という話を聞きました。兄も妹も喜んでくれました。


母方の親戚は、毎年お正月に集まって新年会をするのが恒例でした。

父はその集まりには参加しなかったので、翌年の集まりで何を言われるかと形見の狭い思いで行った母。

世間体を気にして、「もう、みどり(私の本名)はアメリカ人になっちゃって勝手な事をして、、、」みたいな事を言ったらしいのですね。

そうしたら、(祖母も祖父ももう亡くなっていたので) ほぼ家長のような存在だった上記の叔母のご主人である叔父が、

「俺は養子だ!
育ての親が本当の親だ!」

と言いはらったそうなのです。


叔父が養子な事はそれまで誰も知らなかったので(叔母は知っていたでしょうが)、

私が娘を養子にした事で彼はカミングアウト出来た訳です。


きっと嬉しかったのではないかな〜、と思います。やっと!ですよね。


その時私は、

「この子は、幸せを運んでくる子なんだ。」

と思いました。


正式な養子縁組の手続きには6ヶ月以上かかり、Adoption Certificate (養子縁組証明書)と、私と元夫が親として記載されている娘の出生届を受け取るには、ニューヨークの首都のアルバニーの裁判所に行きました。


正直言って、出生届に私たちが親として記載されるのは変だな〜、とは思いました。私は娘を産んでないんですから。養子に出された子が、人生で苦労しないように、というアメリカらしい配慮なのでしょうね。


乳児を養子にしなくても同じなのか、と疑問に思い、初めてこれについて調べてみると、なんとニューヨーク州では昨年の11月14日に新法が成立し、18歳以上になった(成人した)人であれば、養子縁組以前の情報が記載された出生届けも受けられることになったそうです。その公布は今年の一月から。そうなんだ〜!です。うちの娘は、「何でそんなのが欲しいの?」って言いそうですが、人によっては、そのオリジナルの出生届けが欲しい人もいるでしょうね。クオモ知事が声明したところでは、「真実を知る事は各個人の権利であるから。」だそうです。尤もです。


養子縁組証明書の書類が揃ったので、在ニューヨーク日本領事館に行って、

「養子を迎えたので、その事実を戸籍に記載して欲しい」とお願いすると、前例はないのかもしれませんね、受付の人は最初は戸惑い、

「少々お待ち下さい」としばらくいなくなった後に戻ってきて、

「産みの母親があなたでないのなら日本の戸籍には記載できません。」と言われました。


もし私が産みの母親であったとしても、赤ちゃんが出生した日から3ヶ月以内に届け出なければならなくて、もう期限を過ぎているからダメです、と。


ハァ〜?! でも、アメリカ人の夫と結婚した事は私の戸籍に記載されているのですよ!

娘を日本人として認めてくれ、と言っているのではありません。

日本人の私が彼女を養子として迎えた事実を記載してくれ、と要求しただけです。

アメリカと何という違い!


その後、日本では「無戸籍問題」なるものが広く存在することを知りました。

親に何らかの事情があって、子供の出生を期限通りに届けないと、その子は無戸籍になる、と。

ハァ〜?!です。これ、おかしいです。


なので私の娘は、日本の戸籍上は私の家族ではないんです。

これも、私が娘の出生の事情を日本側に良いにくかった理由のひとつ。

しばらくは憤りを感じたり、悲しんだりしていましたが、その内に、

良いわ、そんな偏見に満ちた国に認めてもらえなくても!と思いました。


これには母も怒り、私と地元の出張所に出かけて談判しました。

そこでは優しい年配の男性の職員さんが、「もし娘さんが将来日本に住みたいと思えば何とかなると思いますよ。」と慰めてくれました。そうか、その時になったら私は戦おう、と思いました。


それでも娘には日本語で話し、日本の文化は教えていこう、と思い、

バイリンガルに育てるのにはかなりの苦労をしました。


その苦労にご興味がある方は、こちらをご覧ください。


次回は、娘の産みの親たちとの契約について、を書きます。

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